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第一起点としての「わたし」 [「『証巻』を読む」その23]

(3)第一起点としての「わたし」

釈迦が菩提樹の下で悟った(目覚めたと言った方がいいかもしれません、気づきを得たということですから)のは縁起とか無我だとされます。縁起や無我とは「あらゆるものは互いに縦横無尽につながりあい、そのつながりから離れて自立しているものは何ひとつない」ということです。これは第一起点としての「わたし」はないということに他なりません。「わたし」もまた他のあらゆるものとの縦横無尽のつながりのなかにあり、それから離れて「純粋な起点」であることはできないということです。

さてこのことは何を意味するのか。

釈迦は「わがちからにて」救いを手に入れようとしました。「わたし」が救いをゲットしようとしたのです。しかしどう頑張ってもできず、それを一旦うち切ったときに、ある気づきが訪れた。それは「わたし」が救いをゲットしようとすること自体が救いを遠ざけていたということを意味します。救いを「こちらから」ゲットしようとすることそのことが、救いの障碍になっていることに気づいた。これは、救いは「むこうから」やってくるしかないということです。あるいはこうも言えます、「わたし」が救いをゲットすることはできず、逆に、救いが「わたし」をゲットするのだと。

「救いはむこうから」という気づき自体「こちらから」得ることはできません、これまた「むこうから」やってくるしかないのです。

浄土教において、なぜ釈迦は自らの教えを説くのではなく、「ただ弥陀の本願海を説く」のかを考えてきました。それを要するに、釈迦自身が「むこうから」やってきた気づきに救われたからであり、「弥陀の本願海」とは「むこうから」ということを表現するものということです。「こちらから」とは「わがちからにて」あるいは「わがはからひにて」ということであるのに対し、「むこうから」とは「弥陀のちからにて」あるいは「弥陀のはからひにて」ということです。


タグ:親鸞を読む
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