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『教行信証』「信巻」を読む(その132) ブログトップ

願われているから願うことができる [『教行信証』「信巻」を読む(その132)]

(3)願われているから願うことができる

そこで例によって機の深信が出てきます、「しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし」と。われらにはもともと真実の欲生、清浄の欲生はないというのです。至心釈においてはまず機の深信すなわち「われらにもともと至心はない」ことが先に出されていました。ところが信楽釈でも、いまの欲生釈でも、まず法の深信すなわち「真実の信楽は如来の信楽であり」、「真実の欲生は如来の欲生である」と言われ、そのあとで機の深信すなわち「われらにはもともと真実の信楽も欲生もない」ことが述べられます。

それはすでに言いましたように、至心釈において至心は如来から回向されることが確認され、その至心を体として信楽があるのですから(つまり至心と信楽はひとつですから)、信楽もまた如来から回向されると前もって言うことができるからであり、同様に信楽を体として欲生があるのですから(つまり信楽と欲生はひとつですから)、欲生もまた如来から回向されると前もって言えるからです。しかし気づきの順としては、至心の場合と同じように、まず機の深信しかる後に法の深信となります。すなわちまずもってわれらに真実の信楽も真実の欲生もないことが突き付けられ、しかる後にそれらはみな如来から回向されることに気づかされるのです。

われらにはもともと真実の欲生心がないというのは、われらにはひたすら「わたしのいのち」しかなく、「わたしのいのち」を「わたし」の裁量で生きていこうという思いに囚われていますから、「ほとけのいのち」に帰りたいなどという願いは微塵もないということです。「ほとけのいのち」はそんなわれらを哀れみ、「わがもとに来れ」と喚ばわってくださるのです。われらはその「こえ」に驚き、そのときはじめて「ほとけのいのち」に帰りたいという願いが芽生える。これが「欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋まじはることなし」ということです。

すでに如来から往生を願われているから、われらが往生を願うことができるのです。


タグ:親鸞を読む
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