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はじめての『教行信証』(その33) ブログトップ

2013年8月30日(金) [はじめての『教行信証』(その33)]

 これは何度も言いますように釈迦の教えを説いているのではありません、阿弥陀仏の教えでもありません、阿弥陀仏の本願と名号にまつわる特異な物語なのです。
 これで教巻がたった5ページだけというのも納得できます。浄土の教えといって特別なものがあるのではなく、ただ阿弥陀仏が本願を立て、名号を与えたという物語があるだけです。だからこそ「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち佛の名号をもて経の体とするなり」ということで教巻は閉じられることになります。
 無量寿経は「釈迦の教え」ではなく、「法蔵菩薩の物語」が説かれていると述べてきました。ここでいくつかの疑問が押し寄せてきます。ひとつは、どうして物語などという特異な形を取らねばならなかったのかということ、もうひとつは、物語を信じるなんてことは正気の沙汰ではないということです。このふたつは深く繋がっていますが、便宜上分けて考えてみましょう。
 まず、釈迦がみずから教えを説くのではなく、阿弥陀仏についての物語を聞かせるという形式を取ったのはなぜか。これは釈迦の悟りとは何かという問題とつながっています。
 アインシュタインの相対性原理を持ち出しますと、これは紛れもなくアインシュタインのアイデアです。彼の頭脳から生まれた。ですから相対性原理の知的所有権はアインシュタインにあります。さて、では釈迦の悟りはどうか。例えば縁起というのは釈迦の頭脳から生まれたものでしょうか。アインシュタインが宇宙の謎を解こうとさまざまに思いを廻らせた結果、相対性原理にたどり着いたように、釈迦もこの世界の謎を解き明かそうとして縁起というアイデアを生み出したのでしょうか。そう言ってよさそうにも思いますが、何かしっくりしないものがあるようにも感じないでしょうか。

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