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三不三信の誨(おしえ) [『教行信証』「信巻」を読む(その39)]

(8)三不三信の誨(おしえ)


一方、如来は本願力として「いまここ」ではたらいているとすればどうでしょう。そもそも如来ということばの元来の意味は「如より来生す」ということで、「いまここ」に来生していることです。したがって、どこかに超然として存在するとすれば如来でも何でもないということです。そのように如来は「いまここ」に来生し、生き生きとはたらいているとしますと、「わたし」と如来はひとつになっています。


少し前のところで曽我量深氏の「如来我となりて我を救い給ふ」ということばを紹介しましたが(3)、それをお借りしますと、如来は「わたし」となって来生していると言うことができます。そのとき如来と「わたし」は「一心」であり、それが天親の表明「世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつる」のあの「一心」であると曇鸞は見ています。


さて二つ目の「三種の不相応」です。これは「正信偈」に「三不三信の誨(おしえ)慇懃(おんごん)にして(三不三信誨慇懃)」と詠われていることで、「正信偈」では道綽のところに出てきますが、もともとは曇鸞が『論註』で言っていることです。「三不三信」とは「三不信」と「三信」を一つにしたもので、三つの真実ならざる信心と、その反対の三つの真実の信心ということです。


称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざる」のはどういうわけかというと、そこには真実の三信心が伴っていないからであるというのです。すなわち、第一に「信心淳からず(不淳)」、第二に「信心一ならず(不一)」、第三に「信心相続せず(不相続)」であると。「不淳」とは「存せるがごとし、亡ぜるがごとき」とありますように、信心があるかなきかはっきりしないということ、「不一」とは信心が決然とせずフラフラしているということ、「不相続」とは信心が途絶えてしまうということです。


「この三句展転してあひ成ず」と言われますように、不淳であることも不一であることも不相続であることもみな「一心」としての信心ではないということです。



タグ:親鸞を読む
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