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勝義諦と世俗諦 [『ふりむけば他力』(その99)]

(8)勝義諦と世俗諦

 『中論』はいよいよ最終局面を迎えます。第24章「四つのすぐれた真理(四諦)についての考察」です。四諦といいますのは釈迦の初期の説法を要領よくまとめたもので、第一の苦諦は「生きることはみな苦しみである」、第二の集諦(じったい)は「苦しみの元は煩悩である」、第三の滅諦は「煩悩の滅した状態が涅槃である」、第四の道諦は「そこへ至る道は八正道である」となります。さて、まず反対論者はこう言います、「もしも一切が空であるならば、生も滅も存在しない。[生も滅もないから]聖なる四つの真理(四諦)のないことが汝に付随して起こる」と。集諦は「苦しみの生じる元についての真理」であり、滅諦は「苦しみの滅することについての真理」ですから、もしも一切が空であり、生も滅もないとしますと、釈尊が説かれた聖なる真理が成り立たないことになるではないか、と反対者が言うのです。
 龍樹はそれに答えてこう言います、「二つの(種類の)真理によって、もろもろのブッダは法(教え)を説いた。[その二つの真理とは]世俗の覆われた立場での真理と、究極の立場から見た真理とである」と。そしてこうつづけます、「この二つの(種類の)真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深遠な真理を理解していないのである」、「世俗の表現に依存しないでは、究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならば、ニルヴァーナ(涅槃)を体得することはできない」と。
 真理には「究極の立場から見た真理」(これを勝義諦あるいは真諦と言います)と「世俗の覆われた立場での真理」(これを世俗諦あるいは俗諦と言います)があり、「一切は空であり、生も滅もない」と説くのは前者の勝義諦だというのです。そしてこの「一切は空である」という勝義諦のことばが何を意味しているかといいますと、われらが「あるものが生じ、また滅する」と見るのは、ことばの構造(文法)がそのように思わせているにすぎないが、にもかかわらず実際にそうであると思い込んでいるということです。だから世俗諦では「苦しみが生じ、また滅する」というのであり、それは「生も滅もない」という勝義諦と何ら矛盾しません。
 かくして龍樹は反対論者にこう告げます、「汝は自分のもっているもろもろの欠点を、われわれに向かって投げつけるのである。汝は馬に乗っていながら、しかも馬を忘れているのである」と。汝はことば上の約束事にすぎないものを実在と見て、それに囚われた眼でわれらに非難を投げつけているのであるということです。ヴィドゲンシュタイン的に言いますと、汝は言語ゲームに参加していながら、そのことをすっかり忘れているのだとなります。

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