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「わがもの」への執着を断てるか [『一念多念文意』を読む(その105)]

(13)「わがもの」への執着を断てるか

 ゴータマはこうも言います、「邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執着して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない」(中村元氏は最後の「嫌うこともない」は直訳すると「貪りを離れることもない」の意だと注意しています)。
 貪ることなかれ(「わがもの」に執着するなかれ)と言いながら、同時に、貪りから離れることもないと言うのです。ジャイナ教が、ただ貪ることなかれと言うだけなのに対して、ここに仏教の真骨頂があるように思います。しかし、貪らないが、貪りから離れることもないというのはどういうことでしょう。貪らないようにするべきだが、実際に貪ってしまうのは致し方ないということか。そうだとしたら、結局は貪っていいという結論になってしまわないか、とさまざまな疑問がたちのぼります。ジャイナ教のように、貪ることなかれとだけ言う方がよほどすっきりしています。
 もし、貪らないようにしようとして、そうできるのでしたら、ただ「貪ることなかれ」だけでいいでしょう。しかし、われらは悲しいかな、貪らないようにしようとしても、つい貪ってしまう、気がついたらもう貪ってしまっている。これが現実です。ゴータマはその現実をじっと見据えているに違いありません(彼が苦行を打ち切ったのもここに関係すると思います)。
 彼は、苦しみは「わがもの」への執着に縁って起こると言います。しかしそこから、「わがもの」への執着を断てば、苦しみがなくなると短絡させることはありません。しばしばそのように解説している本がありますが、ゴータマはそんな無茶なことを言いません。「わがもの」への執着を断つことができれば申し分ありませんが、そんなことができるわけがありません。それはもう人間であることをやめることです。

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