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信と世界 [「親鸞とともに」その79]

(3)信と世界

普通の信(こちらからつかみとる信)はどこまでも疑いを伴う信であるのに対して、本願の信(本願につかみとられる信)は疑いが消えて澄みきった信であることを見てきましたが、次に考えたいのは、本願の信がひらけたとき、何が起こるかということ、信後の世界はどのようなものであるかについてです。

まず普通の信の場合、ある信が得られたとき、世界にどんな変化が生じるかといいますと、新たな知見が得られたのですから、その分だけ世界は新しくなったと言えます。これまでの世界に新たな知見が加わったわけで、これまで見えていなかったことが見えるようになり、それだけ世界像は新たに塗り替えられることになります(ただ信にもとづく知見にはどこまでも疑いがはりついていますから、それによる世界像はあくまでも暫定的なものであることを忘れるわけにはいきません)。このように、われらがある信をつかみとったとしても、それにより世界像が幾分か塗り替えられるでしょうが、われらがさまざまな知見によって世界像を造りだし、そのなかに生きているという構造そのものには何の変化もありません。

では本願の信はどうかと言いますと、信をえる前とその後では世界が一変します。世界像が変わるのではなく、世界の構造そのものがひっくり返るのです。

本願の信がおこる前は、「わたし」が「わたしのいのち」を「わたしの力」で生きていると思っていました。すべて「わたし」あってのものだねで、「わたし」の裁量ですべては動いていると思っていました。もちろん「わたし」一人では生きることができず、多くの人たちの支えが必要ですが、その支えを得ることができるのも、つまるところ「わたしの力」によるものであると思っていました。そもそも「わたし」が生きていることは「わたし」が生きようと思っているからであり、その思いがなくなったときには早晩「わたしのいのち」は消えてしまうことでしょう。

デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言ったのは、「われ生きんかなと思う、ゆえにわれいまここにあり」ということです。


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