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真如の世界に気づいて [『ふりむけば他力』(その89)]

(13)真如の世界に気づいて

 見てきましたように、分別の世界にいることに気づいたとき(闇に気づいたとき)、同時に縁起の世界に気づいています(光に気づいています)。しかし縁起の世界に気づいたからといって、分別の世界から抜け出て縁起の世界に入ってしまうわけではありません。依然として分別の世界にどっぷりつかっています。無明のなかにいることに気づいたからといって、そのとき真如の世界に入ってしまうわけではなく、依然として無明のなかにいるのです。深海魚が光に遇うことによって、はじめて自分が闇のなかにいることに気づいても、光の世界に移ってしまうわけではなく、これまで同様闇の世界にいるのと同じです。深海魚が何らかの事情で(不運にも人間につかまえられるなどして)光の世界に移動するとしますと、それはもはや魚としてのいのちを失うことに他なりません。
 ここで疑問が出てくるかもしれません。真如の世界に気づいたとしても、その世界に入るのではなく、これまでと同じように無明のなかにいるとすれば、真如の気づきにどんな意味があるのかと。この問いに答える前にひと言。無明の世界から真如の世界に「入る」という言い方をしてきましたが、無明の世界と真如の世界が二つあるわけではなく、世界はただひとつ、無明の世界しかありません。ただひとつの無明の世界にいながら、ある人はそれが無明の世界であることにまったく気づかず、ただひたすら無明の世界を彷徨っているのに対して、ある人は真如の存在に気づくことにより、ここは無明の世界であることに気づいているのです。いま問われているのは、その違いにどういう意味があるのかということです。
 そこで夢のことを考えてみましょう。われらは眠っているときしばしば夢の世界を彷徨います。で、その夢のなかにいる人は、自分が夢を見ているとは思っていません、これが現実だと思って必死にもがいています。いや、夢を見ながら、「あれ、これは夢ではないか」と思うこともあるじゃないかと言われるかもしれませんが、それはもう半分目覚めているときでしょう。しっかり眠っているときには、これは夢ではないかと思うことはありません。ただひたすら夢を生きています。「ああ、夢だったか」と思うのは、目が覚めて現実に戻ってからのことです。

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