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ただ念仏のみぞまことにておはします [『歎異抄』ふたたび(その115)]

(7)ただ念仏のみぞまことにておはします


 もし親鸞が「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」という真理をみずからゲットしたとしますと、その言明自体が「そらごとたはごと」ということになり、何も意味あることを言っていないと言わざるを得ません。しかし親鸞はこの真理にゲットされたのだとしたらどうでしょう。むこうから「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」と聞こえてきて、それに鷲づかみされたとしたら。


このことばは親鸞の口から出て唯円に記録されたものであるには違いありませんが、その元はむこうから聞こえてきたものとしますと、そこにパラドクスが生じることはありません。嘘つきのパラドクスは、あるクレタ人が「クレタ人はみな嘘つきだ」と言明することから生じるのであり、誰かが「クレタ人はみな嘘つきだ」と言っているのをあるクレタ人が聞きつけ、それをただ伝えているだけとしますと、そこには何もパラドクスがないのと同じことです。


「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」という真理は親鸞がみずからゲットしたものではありません。むこうからやってきたこの真理に親鸞がゲットされたのです。そしてそのとき親鸞は同時に「ただ念仏のみぞまことにておはします」という真理にゲットされています。「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」の気づきは「ただ念仏のみぞまこと」の気づきとひとつです。


「そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という親鸞の述懐において、「そくばくの業をもちける身にてありける」という気づきと「(そんな身を)たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」という気づきはひとつでした。そのように「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」という述懐において、「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」の気づきと「ただ念仏のみぞまこと」の気づきはひとつです。


(完)


 以上で「『歎異抄』ふたたび」は終わり、明日からは「『教行信証』「信巻」を読む」がはじまります。



タグ:親鸞を読む
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