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この世にたったひとつのいのち [はじめての『高僧和讃』(その96)]

(16)この世にたったひとつのいのち

 これまで使ってきました「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」で言いますと、自力の小路が「わたしのいのち」で、他力の大道が「ほとけのいのち」です。
 こちらに「わたしのいのち」があって、あちらに「ほとけのいのち」があり、こちらからあちらに移るのではありません。そうではなく、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」であることに気づくのです。それに気づいてはじめて「ほとけのいのち」がその姿をみせます。気づかないうちは「ほとけのいのち」などというものは影も形もなく、また「わたしのいのち」もまだその姿をあらわしていません。ほんとうの「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」の気づきと同時に姿をみせるのです。
 「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」などとは関係なく、ここにごく当たり前にあるではないかと言われるかもしれません。この世に生まれてきて以来ずっと「わたしのいのち」を生きてきたのであり、これ以上にはっきりしたことはないと。でも、「ほとけのいのち」に遇ってはじめて「わたしのいのち」もその姿をあらわすのであり、そうでなければそれはまだほんとうの「わたしのいのち」とは言えないのではないでしょうか。ほんとうの「わたしのいのち」とは、手垢にまみれたことばですが、「かけがえのないいのち」です。他と比較してどうこう言われることのない「この世にたったひとつのいのち」です。
 もう一年以上の歳月が流れましたが、神奈川県の知的障害者支援施設で、元職員の男が19人の入所者を殺害し、20数人に重傷を負わせるという事件がありました。その男のことばとして「安楽死」や「救い」などというのがあったそうで、重い知的障害をかかえている者にとって死ぬことが安楽であり救いであるという、「いのち」そのものを冒涜する考えがうかがえます。彼にはひとり一人の「わたしのいのち」が、ほんとうに「この世にたったひとつのいのち」であるという切実な感覚が見られません。

タグ:親鸞を読む
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