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本文18 [『一念多念文意』を読む(その138)]

        第10回 まうあふてむなしくすぐるひとなし

(1)本文18

 『浄土論』曰(いわく)、「観仏本願力、遇無空過者(ぐうむくうかしゃ)、能令速満足、功徳大宝海」とのたまへり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、まうあふてむなしくすぐるひとなし、よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ、とのたまへり。
 「観」は願力をこころにうかべみるとまふす。また、しるといふこころなり。「遇」は、まうあふといふ。まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしといふ。「空」は、むなしくといふ。「過」は、すぐるといふ。「者」は、ひとといふ。むなしくすぐるひとなしといふは、信心あらむひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくといふ。「令」は、せしむといふ。よしといふ。「速」は、すみやかにといふ。ときことといふなり。「満」は、みつといふ。「足」は、たりぬといふ。「功徳」とまふすは、名号なり。「大宝海」は、よろづの善根功徳、みちきわまるを、海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とく、みちたりぬとしらしめむとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆへに、「大宝海」とたとえたるなり。

 (現代語訳) 天親の『浄土論』に、「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と説かれています。この文は、「仏の本願力を思いますに、本願に遇ってむなしく過ぎる人はいません、すみやかに功徳の大宝海を満足させていただけるのです」ということです。
 「観」とは、本願力をこころに思いうかべるということ、また、それをしるということです。「遇」は、「もうあう」ということ、本願力に「もうあう」ということは、本願力を信じることです。「無」は「なし」ということ、「空」は「むなしく」ということ、「過」は「過ごす」ということ、「者」は「ひと」のことです。空しく過ごす人はいないということは、信心の人は空しく生死に留まることはないということです。「能」は「よく」ということ、「令」は「せしむ」あるいは「よし」ということです。「速」は「すみやかに」ということ、「はやい」ということです。「満」は「みちる」ということ、「足」は「たりる」ということです。「功徳」と言いますのは、名号のことです。「大宝海」は、名号にあらゆる善根功徳がみちみちていますことを海にたとえられているのです。この功徳が信心の人のこころに速やかにはやく満ち足りるということを知らせようというのです。ですから、金剛のような信心を持つ人は、知らないうちに、求めてもいないのに、功徳の宝がその身に満ち満ちますので、それを「大宝海」にたとえているのです。

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