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諸仏と凡夫 [『教行信証』「信巻」を読む(その44)]

(3)諸仏と凡夫


 世界はこの穢土ひとつであり、生きとし生けるものはみな凡夫であるということをもう少し考えたいと思います。凡夫の対語は聖者(あるいは聖聚)で、その典型が諸仏ですが、みな凡夫であるとしますと諸仏とは何かということになります。たとえば釈迦。釈迦もまたこの世界に生きた一人の人間ですから、凡夫ということになるのでしょうか。これにはこう答えられるのが通例です、釈迦も凡夫であったが、35歳のとき悟りを開いて仏となられたと。さてしかし凡夫が仏となることにより何が変わったのでしょう。凡夫とは「五濁・五苦」を受ける身だとされますから、釈迦はもうそのような身ではなくなったということでしょうか。とてもそうとは思えません。


仏(Buddha)のもともとの意味は「目覚めた人」ということです。では釈迦は何に目覚めたのかと言えば、自分は凡夫であるということ、「五濁・五苦」を受ける身であることに目覚めたのです。そしてその目覚めは、その裏側に縁起の目覚め、すなわち生きとし生けるものはみなひとつにつながりあっているという目覚めを伴っています。縁起のなかにあるにもかかわらず(無我であるにもかかわらず)、我執により「五濁・五苦」を受けることになるのだという目覚めです。これを浄土の教えのことばで言いますと、「無量のいのち」の本願力により生かされているにもかかわらず、「わたしのいのち」に囚われて煩悩に逼悩することになるということです。


このように考えてきますと、仏と凡夫との境界線が限りなくうすくなります。前に信心の人は「仏とひとし」ということを見てきました(第4回)。信心を得たとはいえ依然として「わたしのいのち」を生きていますから仏ではありませんが、しかし同時に、すでに「ほとけのいのち」を生きていますからもう「仏とひとし」と。今度は釈迦という仏について「凡夫とひとし」と言わなければなりません。すでに縁起に目覚めていますから(本願力に目覚めていますから)ただの凡夫ではありませんが、しかしこの穢土において「五濁・五苦」を受けていますから「凡夫とひとし」です。


穢土にはまだ本願力に目覚めていない凡夫と、すでに目覚めた凡夫がいるということです。どちらにしてもみな凡夫であり、そしてすでに目覚めた凡夫はまだ目覚めていない凡夫の「よきひと」(仏)となっていくのです。



タグ:親鸞を読む
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