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易往而無人(いおうにむにん) [「信巻を読む(2)」その12]

(12)易往而無人(いおうにむにん)

本願念仏の法は難信であるという文がつづきます、一気に読みましょう。

律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡(凡夫)を転じて聖(聖者)となすこと、なほし掌をかへすがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』に易往而無人(いおうにむにん、往き易くして人なし)といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。

『聞持記』(元照の弟子、戒度の著で、元照の『阿弥陀経義疏』の注釈)にいはく、「愚智をえらばずといふは、性に利鈍あり。豪賤をえらばずといふは、報に強弱(ごうにゃく)あり。久近を論ぜずといふは、功に浅深あり。善悪をえらばずといふは、行に好醜あり。決誓猛信を取れば臨終悪相なれどもといふは、すなはち『観経』の下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等(ら)いへり。具縛の凡愚といふは、二惑(見惑すなわち真実が見えないことによる迷いと、思惑すなわち感覚的、肉体的な迷い)まつたくあるがゆゑに。屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり、一切世間甚難信といふべきなりといふは、屠はいはく、殺を宰(つかさど)る、沽はすなはち醞売(うんばい、酒を売ること)、かくのごときの悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。阿弥陀如来は真実明、平等覚、難思議、畢竟依(ひっきょうえ)、大応供(だいおうぐ)、大安慰、無等等、不可思議光と号したてまつるなり」と。以上

『楽邦文類』(楽邦すなわち浄土に関する文の集成)の後序にいはく、「浄土を修するものつねに多けれども、その門を得てただちにいたるものいくばくもなし。浄土を論ずるものつねに多けれども、その要を得てただちにおしふるものあるひはすくなし。かつていまだ聞かず、自障自蔽(みずからさとりを遮蔽すること)をもつて説をなすことあるもの。得るによりて、もつてこれをいふ。それ自障は愛(貪愛)にしくなし。自蔽は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心つひに障礙なからしむるは、すなはち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔(けんきゃく、隔てる)せず。弥陀の洪願(洪は大の意。大願、弘願ということ)つねにおのづから摂持したまふ。必然(ひつねん)の理なり」と。以上


タグ:親鸞を読む
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