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解脱の光輪きはもなし [親鸞の和讃に親しむ(その4)]

4.解脱の光輪きはもなし

解脱の光輪きはもなし 光触(こうそく)かぶるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ(第5首)

さとりのひかりはてもなし。ひかりにふれるものはみな、有無のとらわれなくなって、へだてなき仏に帰命せん

弥陀の智慧の光を浴びると「有無をはなる」というのですが、どういう事態を言っているのでしょう。ここで「有無」といいますのは、有見と無見のことで、それを離れるということは、両者をともに乗りこえるということです。では有見、無見とは何か。「わたし」は有るとするのが有見、「わたし」は無いとするのが無見と考えていいでしょう。『讃阿弥陀仏偈』をつくったのは曇鸞で、彼はもともと龍樹の学徒ですから、ここで詠われているのは龍樹の思想です。「正信偈」の龍樹讃にも「南天竺に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破(さいは)せん」と詠われています。

第3首のところで述べましたように、われらはみな「わたし」があると思っています。思う主体としての「わたし」は疑いようもなく存在します。もし誰かが「わたし」など存在しないと言ったとしても、そう言っている「わたし」がそこに存在します。さてしかしその「わたし」とは何かと問われますと、途端に答えに窮します。「わたし」をこちらから捉えることはできないからです。こちらから捉えることのできないようなものを存在するとは言えないとしますと、「わたし」は存在しないと言わざるをえません。しかしまた、デカルトの言うように、「わたし」が存在することほど確かなことはありません。かくして「わたし」は有るとは言えないものの、しかし無いとも言えないのです。「わたし」は有るでもなく、無いでもありません。

そしてそれは「ほとけのいのち」についても同様に言えます。「ほとけのいのち」が有ることは、それにひとたび遇うことができれば、もう疑いようがありませんが、しかし、では「ほとけのいのち」とは何かと問われたら、てきめんに答えに窮します。「ほとけのいのち」はこちらからゲットすることができませんが、「ほとけのいのち」にむこうからゲットされるのです。それが「ほとけのいのち」に生かされていることであり、弥陀の「光触かぶる」ということです。


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