SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その71) ブログトップ

念仏者は無礙の一道なり [『歎異抄』ふたたび(その71)]

             第8回 無礙の一道

(1)念仏者は無礙の一道なり

 第7章に進みます。本願念仏を生きる人は無礙の一道を歩むと言われます。

 念仏者は無礙の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には、天神(梵天、帝釈天など)・地祇(堅牢地祇、八大竜王など)も敬伏(きょうぶく)し、魔界・外道も障礙することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず。諸善もおよぶことなきゆゑなりと云々。

 最初の「念仏者は無礙の一道なり」の一文は、「念仏は無礙の一道なり」の方が正しいのかもしれません。「者」を「は」という助詞として読むことがあるからです。『教行信証』「教巻」の冒頭に、「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」とありますが、「一者往相」「二者還相」を「一つには往相」「二つには還相」と読んでいます。また「行巻」の「他力といふは如来の本願力なり」という文は「言他力者如来本願力也」というふうで、「者」はしばしば「は」と読みます。意味的にも「念仏者は」よりも「念仏は」とした方が「無碍の一道なり」という述語につながりやすいと言えるでしょう。その一方で、それにつづく文が「信心の行者には」とはじまっていることから、「念仏者は無礙の一道を行くなり」を約めて「念仏者は無礙の一道なり」と言っていると解釈することもできます。
 いずれにしても意味に差はありません。念仏をすることで無礙の一道を歩むことができるということです。
 この「無礙道」ということばは曇鸞の『論註』に出てきます。阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい、この上ない仏のさとりをさします)は無上正遍道と訳すことができるとした上で、その道は「無礙道」であると言っているのです。そして曇鸞は『華厳経』から「十方の無礙人(仏のことです)、一道より生死を出でたまへり」の一文を引き、「この一道は一無礙道なり。無礙は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり」と注釈しています。「正信偈」の曇鸞讃に「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ(惑染凡夫信心発、証知生死即涅槃)」とあるのはそのことです。ここから親鸞は「念仏者は無礙の一道なり」と言っているのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その71) ブログトップ