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微妙な違い [「『おふみ』を読む」その9]

(9)微妙な違い

「おふみ」を読みますと、そこかしこに親鸞的な感性との微妙な違いを感じざるをえません。違いと言っても、これとはっきり明文化できるようなものではなく、蓮如が親鸞の思想に何か変更を加えたというわけではもちろんありません。蓮如は長い修学時代に親鸞の著作はもちろんのこと、かなり幅広く学んでいますが、その中心は覚如(親鸞の曽孫)・存覚(覚如の長男)の著作だったようです。覚如にせよ、存覚にせよ、そして蓮如にせよ、祖師・親鸞の他力信心を顕彰しようとしているのですから、親鸞との間に明確な違いなどあるはずがありません。しかし、親鸞は法然の信心に変更を加えようなどとつゆほども思っていなくても、そこにはおのずからなる違いがあるように、蓮如と親鸞のあいだにも微妙な違いがあります。

どうしてそんな細かい違いにこだわるのか、と言われるかもしれません。小異を残して大同につく、と言うではないか、大きな一致点こそ大事だ、と。でも、それは世間のことで、出世間のこととなりますと、細かい差異、微妙な違いが大事だとも言えます。「神は細部に宿りたもう」のです。親鸞と蓮如との微妙な差異は何処にあるのかというのがぼくの問題意識で、いまこうして「おふみ」を精密に読もうとしているのも、実はそういう思いからです。ですから、それをこれから徐々に明らかにしていくのですが、前もって見取り図を描いておきますと、二人が立っていた「場」そのものの違いが根底にあるのではないかという見通しです。

善導の有名なことばに「自信教人信」があります。「自信」と「教人信」は別ものではなく、「自ら信ずる」ことがそのまま「人を教えて信ぜしむ」ことに他なりませんが、親鸞の場合、どちらかというと「自信」にウエイトがあり、「教人信」はそのおのずからなる帰結という気配であるのに対して、蓮如の場合、逆に「教人信」の意識が強烈で、「自信」はその当然の前提という感じです。そのことが、あらゆる方面に微妙な違いとして顔を出しているのではないか、そんな気がするのです。


タグ:親鸞を読む
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