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本願のかたじけなさよ [『歎異抄』ふたたび(その110)]

(2)本願のかたじけなさよ


「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」という述懐において親鸞は本願の「ありがたさ」に一人没入していると言いましたが、この「ありがたさ」は、次につづく「さればそこばくの業をもちける身にてありけるを」という言い回しに滲み出ています。こんな「そこばくの業をもちける」親鸞一人がために五劫思惟の願があるというのは、何と「ありがたい」ことかと。「ありがたい」とは、そんなふうであることは希有である、そんなことは普通にはありえない、という意味です。


そしてこの「ありがたさ」は、「たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と表現されています。「かたじけない(忝い、辱い)」というのは、もとは「恥ずかしい」、「面目ない」、「もったいない」という意味で、そこから「ありがたい」という感謝の意をあらわすようになったのですが、ここにはっきり「こんな自分が」という感覚があらわれています。「そこばくの業をもちける身」であることは「お恥ずかしく」「面目ない」ことであるのに、そんな自分を「たすけんとおぼしめしたちける本願」は何と「ありがたい」ことかと。


唯円はこの親鸞の述懐を思い出しつつ、善導の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねにしづみつねに流転して、出離の縁あることなし」ということばを想起しています。


これは『観経疏』「散善義」のいわゆる三心釈において、『観経』の三心の一つである深心を注釈するなかに出てくるもので、善導は「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり」とし、そしてそれには二つの面があって、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなしと信ず」と述べているのです。唯円はそれにつづくもう一つの面を引用していませんが、こうあります、「二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず」と。



タグ:親鸞を読む
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