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「胎生」ということ [『末燈鈔』を読む(その16)]

(13)「胎生」ということ

 本願に気づいた人(本願を信じた人)は、そのとき救われる(正定聚の位につく)のでした。では本願に気づいていない人はどうか。救われないのでしょうか。いえ、そんなことはありません。その人は、救われないわけではないのですが、ただ、いまのところ救われていることに気づいていないだけです。
 救いは「真か、さもなければ偽」ではありません。「真か、さもなければ化」です。救いは気づきに他なりませんから、もうすでに気づいているか、さもなければ、いまだ気づいていないかのどちらかです。気づいた人は、そのとき救われ、気づいていない人は、いまだ救われていることに気づいていない。だから偽ではなく化なのです。
 化の浄土をあらわすことばに「胎生」というのがありましたが、これは母の胎内にあるとき、ここが母胎内であることに気づいていないように、仏の胎内にありながら、そのことに気づいていないということを意味します。孫悟空がお釈迦様の手のひらの上にいながら、そのことに気づいていないようなものです。
 自力の行人も本願を知らないわけではありません。知っているからこそ、念仏することで往生したいと願っているのです。でも、悲しいかな、本願がもうわが身に届いていることに気づいていない。曽我量深氏のことばをお借りしますと、「むかしの本願がいまはじまる」にもかかわらず、そのことに気づいていないのです。むかしの本願がむかしの本願のままなのです。
 だから臨終を待たざるをえません、来迎をたのまざるをえません。そんな自力の行人のために第十九の願はあります。自力ではダメですよ、とは言いません、自力の行人も気づきのときまで待ってあげますよ、と言うのです。


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