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偶然と必然 [『歎異抄』ふたたび(その58)]

(5)偶然と必然

 ぼくはぼくの父と母から生まれ、その父と母もまたそれぞれの父と母から生まれ、というふうに、ぼくがこの世に生まれ出た系譜をずっと辿っていくことができます。もちろんその具体的な顔・名前はせいぜい三代か四代ぐらいしか遡れませんが、とにかく子から親へのつながりはどこまでも追っていくことができ、もしそのつながりのどこか一つでも切れていればいまのぼくが存在することはありません。その意味ではぼくがいまここにいることには必然性があるということになります。
 ぼくがぼくの父と母から生まれたということは、たまたま父と母が出会い一緒になったことによるのであり、もしその出会いがなければぼくの存在はありませんから、その意味では偶然と言えます。しかし、父と母が出会い一緒になるのにはそれなりの縁があったのであり、その縁がなければぼくが生まれることはありませんから、その意味では必然です。こんなふうに偶然と必然は真反対ですが、実はコインの裏と表のようにひとつで切り離せません。
 偶然は英語で「chance」といい、これはもともと「サイコロを振る」という意味だそうです。サイコロを振ってどの目が出るかは偶然というわけです。1の目が出たとしますと、それはたまたま1の目が出たということですが、しかし同時に、そのとき1の目が出たのにはそれなりの必然性があるはずです。ただその必然性のメカニズムがあまりに複雑で、われらにはブラックボックスとなっていることから、「たまたま」そうなったとみなされるのです。
 これまで縁ということばをつかってきました、父と母が出あったのはそのような縁があったからであるというように。そして親鸞も『教行信証』の序において「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」と言っていました。いま「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」という文言について考えているのですが、どうやらこの縁という概念が鍵を握っているようです。俗に「縁は異なもの味なもの」と言いますが、その不思議さ、味わい深さを探りたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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