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面々の御はからひ [『ふりむけば他力』(その122)]

(3)面々の御はからひ

 先の文の「法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか」につづいて、最後に「詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも面々の御はからひなり」ということばがきます。これは、念仏をとるか捨てるかはあなた方の決断次第です、というように受け取るべきではなく、わたしがこのリレーのなかで本願に遇うことができたように、あなた方一人一人が本願に遇うことできるかどうか、これにすべてがかかっているということです。本願に遇うことができた人はその縁があったのであり、できない人はまだその縁がないと言うしかありません。
 これは何か突き放したような冷たい響きがあります。親鸞はもうわたしの知ったことではありませんと匙を投げているのでしょうか。
 そのように受け取るべきではないでしょう。親鸞は「あなた方は本願を信ずることについて根本的な間違いをしている」ことを伝えようとしているのに違いありません。『歎異抄』第2章を貫いているのが「知る」ことと「気づく」ことのコントラストです。先ほど、親鸞のことばとして、あなたがたは、わたし親鸞が「念仏よりほかに往生のみちをも〈存知し〉、法文等をも〈しり〉たるらん」と思っておられるのかもしれませんが、それはとんでもない間違いです、という文言がありましたが、親鸞はさらに「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて〈存知せざる〉なり」と驚くべきことを言います。
 これらのことばから、親鸞は関東からやってきた弟子たちに、「あなたがたは本願や念仏が何であるかを知ろうとしているのではないか、知ることによって信じられると思っているのではないか」と問いかけていることが分かります。本願は何であるかを知るということは、本願をこちらからゲットすることに他なりませんが、もしあなた方がそうしようと思っているのでしたら、本願はどこまでも逃げていきますよ、と言っているのです。本願はこちらからゲットできるものではなく、逆にわれらが本願にゲットされるのです。それが本願に遇うということ、本願に気づくということです、と。

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