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一生悪を造れども [「『正信偈』ふたたび」その87]

(8)一生悪を造れども

さて、第三・四句「一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり」という偈文に道綽らしさがもっともよく出ています。親鸞は『高僧和讃』のなかで道綽を讃える和讃を7首詠っていますが、その一つ、「濁世の起悪造罪は 暴風駛雨(しう、激しい雨)にことならず 諸仏これらをあはれみて すすめて浄土に帰せしめり」からも同じように道綽らしさがよく伝わってきます(先の偈文もこの和讃も道綽の『安楽集』のことばをほぼそのままに詠われています)。道綽らしさとは何かといいますと、それは「悪」を見つめる視線でしょう。これまでは「煩悩」ということばでおさえられてきたものを道綽はきっぱりと「悪」と捉え、われらはみなひとしなみに悪人であると捉えた、ここに道綽浄土教の真髄があると言えます。

誰かから「なんじは煩悩具足の凡夫である」と言われたら素直に「その通りです」と答えられても、「なんじは悪人である」と言われますと反発心が起こるものです。「確かに善人とは言えないかもしれませんが、ときには善いことをすることもありますから、悪人とは言い過ぎではないでしょうか」と抗議したくなります。これがわれらの自然な感覚です。ところが道綽は「一生悪を造れども」と言い、また「濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず」と言います。ここには自分のなかに渦巻く「悪」をじっと凝視する眼があります。この眼は道綽から善導へ、そしてさらに法然から親鸞へと受け継がれてきました。とりわけこのすぐ後に取り上げられる善導の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなし」ということばの力は大きく、後世に強い影響を与えました。

さてこの「悪」を見つめる眼はわれらにもとから備わったものではありません。そのことは、すぐ前に言いましたように、誰かから「なんじは悪人である」と言われたときの反発からも明らかです。その眼は「弘誓に値ふ」ことにより如来からたまわったものです。如来からこの眼をたまわったからこそ、「一生悪を造れども」と言い、「濁世の起悪造罪は 暴風駛雨にことならず」と言うことができるのです。


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