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内にあって、かつ外にある [「親鸞とともに」その75]

(7)内にあって、かつ外にある

「わたしのいのち」の生まれ故郷は「ほとけのいのち」だと言いましたが(3)、いのちの無尽のつながりである「ほとけのいのち」のなかから新しく「わたしのいのち」が生まれてきたとしますと、その「わたしのいのち」の深層意識のなかに自分の生まれ故郷である「ほとけのいのち」が潜んでいると考えることはできないでしょうか。いまの遺伝子科学の知見でいいますと、「わたしのいのち」のDNAのなかに「ほとけのいのち」のことが書きこまれているということです。そのように考えることで、先の問いである「わたしの願い」と「ほとけの願い」(本願)の関係についてよりはっきりと答えることができるようになります。

「わたしのいのち」はそれぞれの戸籍をもっていることに応じて、「わたしの願い」もそれぞれ別々となりますが、「わたしのいのち」はみな「ほとけのいのち」を本籍としていることからしますと、「わたしの願い」の深層には共通の「ほとけの願い」がひっそりと息づいているということになります。普段は自分のなかに「ほとけの願い」があることを意識することはありませんが、何かの折にふと姿をあらわし、そして他人のことに責任を感じてしまうのです。さてしかし責任を感じるとは言え、その責任を自分の力で果たすことなど到底できることではありません。自分のことだけでももてあましているのに、あらゆる責任を自分一人で担うことなどできるはずがありません。これは「わたしの願い」は「ほとけの願い」に代わってそのはたらきをすることができないということです。

このように「わたしのいのち」は所詮「有量のいのち」としての限界のなかにあることに気づかされるのですが、そのとき同時に「有量のいのち」のままで「無量のいのち」に生かされていることに思い至ります。そしてまた「わたしの願い」も「ほとけの願い」のなかに包まれていることに思い至ります。先ほどは「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそりと息づいていると言ったのですが、今度は「わたしの願い」は「ほとけの願い」に包まれていることに思い至るのです。「ほとけの願い」は「わたしの願い」の内にありながら、同時に、その外にあるという、「内在かつ超越」の関係にあることが分かります。


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