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なんぢはこれ凡夫なり [『観無量寿経』精読(その77)]

(10)なんぢはこれ凡夫なり

 釈迦が韋提希の願いを受けて阿弥陀仏とその浄土の教えを説こうとした時、まずこの三福を上げたのでした、「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」と。そしてさらにこう付け加えていました、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。釈迦は阿弥陀仏とその浄土について語る前に、何をおいてもまず「三福を修すべし」と説いているのですが、これはどうしてでしょう。
 それを考えてみますと、釈迦は、救いを願う韋提希の心のありようを見抜いていたからに違いないと思われます。韋提希は「世尊、われ宿(むかし)、何の罪ありてか、この悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属なる」と愚痴をこぼし、さらには「この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満(ようまん)し、不善の聚(ともがら)多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ」と身も世もなく嘆いていました。
 釈迦はこんなふうに不満のたけをぶちまける韋提希に「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣(るいれつ、弱く劣っている)にして」と言い放ちます。「汝は周りに愚痴をこぼしているが、汝自身はどうか、その心想は羸劣ではないだろうか」と言っているのです。この濁悪の処は不善の聚ばかりだと言うが、汝に不善はないか、と目を自分自身に向けさせていると思われます。それが「かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし」ということばの真意ではないでしょうか。
 「三福を修すべし」ということばの裏に隠された真意は、「汝自身を知れ」であるということです。
 この三福の教えがここ九品段でより詳細に展開されており、上品の人は大乗の行福を修めることにより浄土に往生できるとされます。そして中品上生の人と中品中生の人は戒福を修めることで、上品の人に比べれば多少の差はあるとはいえ、しかし同じように往生がかない、また中品下生の人は世福を修めることで、さらにその質は劣るものの、でも間違いなく浄土に往生できると説かれます。これもまた「三福を修すべし」と説くことを通して己の真のありように気づかせようとしていると見ることができます。

タグ:親鸞を読む
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