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名号はこれ善なり [『末燈鈔』を読む(その179)]

(10)名号はこれ善なり

 財産を考えてみましょう。財産は間違いなく善きものですが、でも場合によっては悪いものにもなります。親の遺産相続を巡って思いもかけない骨肉の争いが起る例にはこと欠きません。そんなことになるなら親の遺産などない方がいいと思ったりもします。財産が善きものであるのは、それによって善きことができるからで、それ自体が善ではありません。
 さて名号です。親鸞は、ぼくらが名号を称えることが善なのではなく、名号そのものが善であるといいます。財産の場合、それ自体が善きものであるわけではなく、それを用いて善きことができてはじめて善きものですが、名号は、ぼくらがそれを称えることが善きことではなく、名号それ自体が善きもので、だから名号を称えることが善きこととなるということです。名号は、それを用いて何か善きことをするようなものではなく、それがあること自体が善きことなのです。
 善きものに二種類ありそうです。一つは何かをするための手段としての善きもので、もう一つはそれ自体が目的としての善きものです。
 前者は、善きものに上下の階層があり、下位の善きものは上位の善きものの手段となるという構造をしています。後者は一見そうした階層の最上位にあり、もはや何ものであれ、その手段となることはないようなもののようですが、実はそうではありません。目的・手段の階層をなす善きものは、その階層をたどってぼくらが手に入れなければならないものですが、後者は、ふと気づいたときにはすでに与えられているのです。
 こう言っても同じです。前者は「わたし」がそれをこれからゲットしなければならないものですが、後者は気づいたときには、それが「わたし」をゲットしてしまっている、と。南無阿弥陀仏は、気づいたときにはすでに「わたし」を包み込み、「わたし」はその中で安らいでいたのです。


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