SSブログ
「信巻を読む(2)」その17 ブログトップ

よく一念の浄信を発して歓喜せん [「信巻を読む(2)」その17]

(4)よく一念の浄信を発して歓喜せん

親鸞はこの第十八願成就文を読み、これはわれらに信がおこる「ときのきはまり」の名状しがたいありようを伝えようとしていると感じられたのに違いありません。この後、『涅槃経』と善導のことばの引用を挟んで、親鸞はこの文を注釈していますが、そこにこうあります、「しかるに『経』に〈聞〉といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」と。このように親鸞は「聞」ということばに着目し、名号が聞こえることは、そのまま本願を疑いなく信受することに他ならないと理解して、名号が聞こえ信心がおこる名状しがたい「とき」のありようを、そしてその信心のありようを「一念」ということばがあらわしていると受けとめたと思われます。

親鸞がこれを「信の一念」としたもう一つの理由が、二つ目の文、『如来会』の成就文にあります。そこに「無量寿如来の名号を聞きてよく一念の浄信を発して歓喜せん」とあり、「一念の浄信」と言われています。『大経』の「信心歓喜」が『如来会』では「浄信を発して歓喜せん」とされ、いずれも信心の慶び(先の「広大難思の慶心」)を言い表していますから、そこからこの一念は「行の一念」ではなく「信の一念」だと理解したのに違いありません。

そして三つ目の文、これは『大経』下巻の「往覲偈(おうごんげ、往覲とは往ってまみえるの意)」にあるものですが、省略せずに出しますと、「その仏の本願の力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る」とあり、十八願成就文と言い方は少し違うものの、言っていることはぴったり重なります。そしてここに「その仏の本願の力」の回向によるとあることによって、親鸞が成就文の「至心回向」を、われらが「至心に回向して」ではなく、如来が「至心に回向したまへり」と読まざるを得なかったことがよく理解できます。そしてここから成就文の「一念」はわれらが回向する「行の一念」ではないことがあらためて明らかになります。

最後の『如来会』の文は『大経』「往覲偈」の文に相当するもので、これを引くことにより信心とは「仏の聖徳の名を聞く」ことであることを再度確認しています。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「信巻を読む(2)」その17 ブログトップ