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プラサーダ [『教行信証』「信巻」を読む(その7)]

(7)プラサーダ


 「自性唯心」の考えは、心が濁っていることで「心の中」の弥陀と浄土を見ることができないとしますが、この「心が濁っている」ということから頭に浮びますのが「プラサーダ」ということばです。浄土の教えで「信心」(第十八願では「信楽」)と訳される元の梵語は「チッタ・プラサーダ」で、「チッタ」が心、「プラサーダ」は「澄んでいる」という意味ですから、「澄んだ心」ということです。そこから「信心」は「浄信」と訳されることもありますが(『大経』の異訳『如来会』では「浄信」です)、要するに信心とは濁っていた心が澄むということを意味します。としますと「自性唯心」と浄土の「信心」は意外に近いとも思えてきますが、では親鸞がこれを「浄土の真証を貶す」とする理由はどこにあるのでしょうか。


問題の核心は信心すなわち「澄んだ心」はどのようにして得られるかという点にあります。「自性唯心」という考えは、われらの心であるのだから、それがどれほど無明煩悩に濁っているとしても、われらの力でそれを澄んだ心にすることができるという立場ですが、親鸞はそれこそ「浄土の真証を貶す」元凶であると見ます。もういちど第一段を読み返しましょう。「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す。真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」とあり、われらに信楽すなわち「澄んだ心」が生まれるのは、弥陀の本願(ねがい)と釈迦の名号(これ)の力であると言われていました。われら自身に無明煩悩に濁った心を「澄んだ心」にすることができるわけがなく、それは弥陀と釈迦二尊のはからいであるということです。


もう一つ、煩悩により見ることができないということに関連して頭に浮ぶのが源信のあの有名なことばです、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。源信は「煩悩、眼を障へて」弥陀や浄土を見ることはできないが、弥陀と釈迦の大悲が「つねにわが身を照らしたまふ」がゆえに「澄んだ心」を賜り、わが身の上にその力用を感じることができると言っているのです。



タグ:親鸞を読む
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