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無知の知 [正信偈と現代(その56)]

(4)無知の知

 誰かが「わたしは何も知らない」と言うとしましょう。その人は何も知らないと言いながら、何も知らないということだけは知っていると主張しています。ここにはどうしようもない背理があります。
 もし彼がほんとうに何も知らないなら、何も知らないということも知らないはずですし、もし彼が何も知らないということは知っているとしますと、何も知らないわけではないということになります。つまり「無知の知」にはもとから無理があるのです。これは「嘘つきのパラドクス」とよく似ています(「わたしは嘘つきです」と誰かが言うとしますと、その人は嘘つきですから、そのことばも嘘であり、したがってその人は正直者だということになります)。
 では「無知の知」はナンセンスでしょうか。とんでもありません、これはかけがえのないことばとして2000年以上の長きを語り伝えられてきたのです。としますと、これは「わたしは何も知らない」とみずから言明しているのではなく、どこかから「なんじは何も知らない」という声がして、その前に首を垂れていると受けとるしかありません。「そうだ、わたしは何も知らないのだ」と知らしめられたのです。
 「無明の闇」も同じです。「わたしは無明の闇のなかにいる」とみずから知ることはできません。そう知ったということはもうすでに真理の明るみにいるということですから。それは、どこかから「なんじは無明の闇のなかにいる」という声がしたということです。その声に「あゝ、わたしは無明の闇のなかにいるのだ」と首を垂れているのです。
 無明はそれに気づかない限り無明でも何でもありません。無明はそれに気づかされてはじめてすがたをあらわすのです、「あゝ、これが無明だ」と。そして無明に気づいたとき、それはもう無明ではなくなっています。もう弥陀の心光のなかにつつみこまれているのです。ソクラテスにとって「無知の知」が人間としての最高の知であるように。

タグ:親鸞を読む
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