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如来選択の願心より発起す [『教行信証』「信巻」を読む(その2)]

(2)如来選択の願心より発起す


「序」を三段に分け、まずその第一段。


顕浄土真実信文類 序


それおもんみれば、信楽を獲得(ぎゃくとく)することは、如来選択の願心より発起す。真心真実の信心を開闡(かいせん、開も闡も「あける」の意)することは、大聖(釈迦如来)矜哀(こうあい、矜も哀も「あわれむ」の意)の善巧(ぜんぎょう、善巧方便。巧みな手段、方法)より顕彰せり。


 このたった二文のなかに「信とは何か」についての核心が詰まっています。ですからこの二文が心の底から納得できましたら、もう「信巻」を読む必要がないと言ってもいいほどです。親鸞はなぜ「信巻」を書いたかを語るにあたり、「信巻」のもっとも大事なことを冒頭に掲げているということです。二つのことが言われています。その一つが信心(信楽と言われていますが同じです)は弥陀の本願によりおこるということ、その二つ目が釈迦が巧みな手立てでわれらに信心を発起させてくださったということです。弥陀の本願がなければ信心はないということ、そして釈迦の善巧方便がなければこれまた信心はないということ、われらの信心は弥陀と釈迦のおかげであるということです。親鸞は和讃でそれをこう詠っています、「釈迦・弥陀は慈悲の父母 種々に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまひけり」と(『高僧和讃』「善導讃」)。


まず一つ目の弥陀の本願がなければ信心はないということですが、これは一見あたり前のことを言っているように思えます。弥陀の本願があるから、われらがそれを信じるのであり、もしそれがなければ信心がないのは言うまでもないと。しかし「信楽を獲得することは、如来選択の願心より発起す」とは、そんなことを言っているのではなく、われらが弥陀の本願を信じること自体が弥陀の本願のはたらきによるということを意味します。つまりわれらが「われらの力」で弥陀の本願を信じるのではなく、「弥陀の本願自身の力」によりわれらに信心がおこるということです。信心はわれら「に」起こりますが、われら「が」起こすことはできないということ、これが「他力の信心」あるいは「賜りたる信心」と言われることです。



タグ:親鸞を読む
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