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染香人のその身には [親鸞の和讃に親しむ(その39)]

(9)染香人のその身には(これより勢至讃)

染香人(ぜんこうにん)のその身には 香気(こうけ)あるがごとくなり これをすなはちなづけてぞ 香光荘厳とまうすなる(第116首)

香に染まったその身から、香りあたりにただよって、ゆえに念仏するひとを、染香人と名づけたり

本願の信(気づき)をえたあかつきには、その身に本願の香りが染むと詠います。本願に目覚めた人は、本願の香りがうつり、本願の染香人になるということです。あるいは「無量のいのち」に遇った人は、「無量のいのち」の香りがつき、「無量のいのち」の染香人となる。それまでは、ただひたすら「わたしのいのち」として、「わたしのいのち」の匂いしかしませんでしたが、「無量のいのち」に遇うだけで、芳しい「無量のいのち」の香りがうつるのです。むかしバリ島に行ったとき、どこでもプルメリアの花に囲まれ(至るところに神々が祀る祠があり、そこにこの花弁が手向けられているのです)、身体にその香りが染みついて、日本に帰ってきてからもその香りがそこはかとなくただよっていました。そのように、「無量のいのち」に遇うことができ、それからはいつも「無量のいのち」に囲まれていますと、その芳しい香りが身に染みつくようです。

本願に遇うまでは、ただひたすら「わたしのいのち」を生きるだけですから、「わたしのいのち」の匂いしかしませんが(というより、その匂いしかないということは何も匂わないということです)、本願の信を得ることができますと、「わたしのいのち」を生きることはそのままですが、同時に「ほとけのいのち」に生かされていることに気づき、その「ほとけのいのち」の香りがそこはかとなくするようになります。ぼくの庭にはいい香りの木として沈丁花と金木犀がありましたが、春先の沈丁花は近づきませんとそのいい香りを楽しむことはできません。でも秋の金木犀は空気に乗ってその香りが漂いますから、かなり離れていてもそこはかとなく香りがやってきます。そのように、「ほとけのいのち」もその香りを周りに漂わせ、深い安らぎを与えてくれます。でも「ほとけのいのち」に遇うことがありませんと、その香りにも無縁のままです。


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