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煩悩のこころが明るい [「親鸞とともに」その126]

(10)煩悩のこころが明るい

さてここで考えておかなければならないのは、あるとき、永遠の「いま」が開いたとしても、そのまま永遠の世界に入ってしまうことはできないということです。われらはそれまでと変わらず時間のなかで生きていくしかありません。しかし、一方では永遠の「いま」に遇い、他方で時間のただなかを生きるというのはどういうことでしょう。「よこさま」に「ほとけのいのち」に遇うことができたが、これまで同様「たてさま」に「わたしのいのち」を生きるということ、それはどのような生き方でしょうか。

「わたしのいのち」を生きるということは、取りも直さず、煩悩の生活を送ることであり、「欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず」(一念多念文意)ということです。あるいは「すでによく無明の闇を破すといへども、貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり」(正信偈)ということです。しかしそれは「たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし」(同)であると言われます。一方では「いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ」が消えることはないが、しかし他方ではそのままで「摂取の心光」に護られて明るいと言うのです。

煩悩のこころがそのままで明るいということ、そのことが『歎異抄』第1章では「悪をもおそるべからず」と言われます。「ほとけのいのち」に遇うことができると、もう悪をおそれるこころがなくなるということです。煩悩のこころが暗いのはなぜかと言えば、それは悪をおそれているからです。そして悪をおそれるのはなぜかと言いますと、因果応報をおそれるからです。親鸞は因果応報をおそれるこころを「罪福の信」と言います。罪とは苦を招く悪業を、福とは楽を招く善業を指し、「罪福の信」は善因善果、悪因悪果を信じることです。これがわれらのこころを暗くさせている元凶です。

では「ほとけのいのち」に遇うことができると、なぜ「悪をもおそるべからず」かと言いますと、「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑに」です。「ほとけのいのち」に遇うことができますと、煩悩のこころが煩悩のままで明るいのです。

(第12回「いま」ということ 完)


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