SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その95) ブログトップ

真実信心の称名は [親鸞の和讃に親しむ(その95)]

(5)真実信心の称名は

真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる(第39首)

信にともなう称名は、弥陀の回向によるからに、不回向の名でよばれては、自力念仏きらわれる。

真実信心が弥陀の回向(賜物)であることは、信心の智慧が「気づき」であることを思えば納得するのにさほど困難はありませんが(「気づき」はむこうから与えられるものですから)、さて称名念仏となりますと、これまた如来の回向であるというのはなかなかストンと落ちてくれません。信心は心の内面の出来事ですが、称名は口を動かすという身体動作ですから、これまた如来の賜物と言われても素直に頷くのが難しいのです。どんな動作であれ、そこには主体の意思がはたらくものであり、称名も「よし称えよう」と思ってはじめて声に出るわけですから、それが如来の賜物であるというのはどういうことだろうと思ってしまうのです。実際ぼくはなかなか「南無阿弥陀仏」と称えられないままでした。何か抵抗する力がはたらいて「南無阿弥陀仏」が口をついて出てくれないのです。ぼくにはこの「不回向」というのが長い間腑に落ちなかった。

それがいつからでしょうか、仏壇に向かって自然に「南無阿弥陀仏」と称えるようになりました。それは思うに、如来から「お前を待っているぞ」という声がはっきり聞こえるようになったということでしょう。それまでは本願名号を頭では了解するものの、骨身に沁みては感じていなかったに違いありません。ところがいつしか「お前を待っているから、いつでも帰っておいで」の声が鮮やかに聞こえるようになったのです。そうしますと、それにもう応答せざるを得なくなります、「ありがとうございます」と。こんな自分が「待ってもらっている」という気づきがありますと、「これほどありがたいことはない」という思いが自然にわきあがってきます。そしてその思いが「南無阿弥陀仏」という声となっておのずから口をついて出るようになったのです。これが「仏恩報謝の念仏」と言われるものでしょう。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その95) ブログトップ