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なほし掌をかへすがごとく [「信巻を読む(2)」その13]

(13)なほし掌をかへすがごとく

用欽も戒度も元照の弟子で、ここに引用されているのは師匠の『阿弥陀経義疏』を注釈している文です。最後の『楽邦文類』は南宋の宗暁が編集しましたが、この後序は光遠(こうおん)によるものです。いずれも先の元照の文と同じ趣旨で、浄土の教えは「なほし掌をかへすがごとく…易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん」ことを述べています。「ただ信ずるだけ」で往生し成仏できると言われると、そんな簡単なことで救われるはずがないと疑うということです。このように浄土の教えには「易しいからこそ難しい」という逆説があります。

本願はそれに気づいて(信じて)はじめて存在し、気づかないと(信じないと)どこにもありません。本願があるから信心(気づき)があるのはもちろんですが、同時に、信心(気づき)があってはじめて本願があります。本願は十劫の昔に成就したと言われますから(経典にそう書いてありますから)、本願は十劫の昔から(つまりは永遠に)存在していると思いますが、あにはからんや、本願は信心のときにはじめて存在するようになるのです。信心が本願をはじめてつくるわけではありません、信心は永遠の本願に気づくだけです。でも気づかなければどこにもないのですから、その意味で本願は信心のときにはじめて存在することになるのです。

「永遠」の本願が、信心の「いま」存在しはじめるのです。

これが「ただ信じるだけ」と言われる意味です。ただ本願に気づくだけで「なほし掌をかへすがごとく」救われるのです。「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」がわれらにかけられていることに気づくだけで、もうその「ねがい」に摂取不捨され、「すでにつねに浄土に居す」ことになるのです。しかしこの「ただ信じるだけ」が難しい。なぜか。『楽邦文類』の文が言うように、そこには「自障自蔽」があると言う他ありません。『論註』に「蚕繭(さんけん)の自縛」ということばがありますが、まさに蚕がみずからの糸で自縄自縛して身を守っているように、われらも「わたしのいのち」を我執でグルグル巻きにして、本願の気づきを自障自蔽しているのです。

(第1回 完)


タグ:親鸞を読む
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