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孫悟空 [『教行信証』精読(その113)]

(11)孫悟空

 巨大なクルーズ船の上では、散歩をしたり、買い物をしたり、食事をしたり、はてはプールに入ることもできるといった具合で、地上で旅を楽しむのと何も変わりません。そこでぼくらは自分の思うままに動き回っているのですが、しかしそれもこれもみな船の上のことであり、ぼくらがそこで自由自在に動き回ることをすべて下から支えて、ぼくらを目的地へと連れていってくれるのです。船の上で自由に動き回るのは「自力」ですが、そのすべてが実は船という「他力」の上であるということ、ここに「自力」と「他力」の関係が見事にあらわれています。
 頭に浮ぶのはあの孫悟空です。お釈迦さまから世界の果てまで行けるかと挑発された孫悟空は、「お安い御用」とばかりに筋斗雲をとばして、世界の果てとおぼしき五本の柱に至ります。そして至りついた証拠としてその柱に落書きをし、ご丁寧にも小便をひっかけて戻ってくるのですが、お釈迦さまの手の指には、何とあの落書きと小便の跡が残っているではありませんか。孫悟空としては「わが力にて」世界の果てを極めたと思ったのですが、そしてそれは間違いではないのでしょうが、しかし実のところすべてはお釈迦さまの掌の上であったということです。
 ここから、自力と他力は、こちらに自力の世界、あちらに他力の世界といった具合に分かれてあるわけではないことが了解できます。ぼくらが生きている世界は、隅から隅まですべて自力であり、それがしかしそっくりそのまま他力に支えられているということです。ときどきこんなふうに言われることがあります、すべて他力のなせるわざだとすると、われらは他力に操られる木偶の坊にすぎなくなるのではないのか。われらの主体性とか自由とかはどうなるのか、と。しかし、心配無用、われらには主体性があり、自由があります。それがわれらの尊厳の源です。しかし、その主体性も自由もそっくりそのまま弥陀の本願という大船の上のことなのです。


タグ:親鸞を読む
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