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行も信も [「『正信偈』ふたたび」その3]

(3)行も信も

これで見ますと、諸仏が弥陀の名号を称えるのは、弥陀の本願とそれにもとづく浄土の素晴らしいありようを十方世界のあらゆる衆生に知らしめるためであることがよく分かります。弥陀の本願とは「十方世界のあらゆる衆生を救いたい(わが浄土に往生させたい)」ということですが、それがただ「願い」としてあるだけでは力にならず、その「願い」を一切衆生のもとに届けなければなりません。親がわが子に「幸せになってほしい」とどれほど願っても、ただ心に願うだけでは子にとっての力とならず、その願いをことばや行いで子に伝えてはじめて子が力強く生きていく糧になります。

さてでは弥陀の本願をどのようにしてあらゆる衆生に伝えることができるでしょう。五劫思惟の結果出された結論は、その願いを「南無阿弥陀仏」という名号に込めて、十方世界の諸仏にその名号を称えさせ、それをすべての衆生に聞かしめるということです。これが「諸仏称名」ですから、弥陀の名号を称えるという行はわれらの行ではなく、諸仏が為す行であることが分かります。かくして〈まず〉「行」があることが明らかになりましたが、では「信」とは何でしょう。

「行」とは、われらがなすのではなく如来がなし、われらに与えられることを見てきましたが、「信」もまた、われらが与えるのではなく、如来からわれらに与えられると言わなければなりません。

真実の信の願として上げられている第十八願すなわち「至心信楽の願」は、「十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじ」というものです。これを何気なく読みますと、「十方の衆生」が「心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念」<すれば>、かならず往生させようと言っているように見えます。もしこの読みが正しいとしますと、「至心信楽」も「欲生我国」も「乃至十念」もみな「われら」が為すことであり、<そうすれば>往生させていただけることになります。つまり「信」は、われらが為し、われらが与えるものであるということです。しかしそれは「至心信楽の願」の本意ではありません。


タグ:親鸞を読む
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