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「見る」と「感じる」 [「『正信偈』ふたたび」その106]

(8)「見る」と「感じる」

ここで「見る」ことと「感じる」ことを対比しておきましょう。まず何かを「見る」ときのことを考えてみますと、「見る主体」と「見られる客体」がはっきり分離されています。こちらに「見る自分」がいて、あちらに「見られる何か」があるというように両者は切り離されていますから、「見る自分」はさまざまなものを見ることができるものの、ただ「見る自分」だけはどうあっても見ることがかないません。鏡に映して見ればいいじゃないか、と言われるかもしれませんが、それはもう「見る自分」ではありません、「見られた自分」です。

一方、何かを「感じる」ときはどうかと言いますと、「感じる主体」と「感じられる客体」は分離されていません。たとえば寒さを感じるとき、「寒さを感じる自分」と「感じられる寒さ」とを切り離すことができません。「寒さを感じる自分」と切り離されて、どこか別のところに「感じられる寒さ」があるとしますと、そのときにはもう寒さを感じていないということに他なりません。これは「寒さを感じる自分」と「感じられる寒さ」とは一体であるということを意味します。

「見る」ことにおいては主客が分離しているのに対して、「感じる」ことにおいては主客が一体であることが確認できました。ここから言えることは、「見る」ことにおいては主客が分離していますから、そのことに対する「疑い」が起こることが避けられないのに対して、「感じる」ことにおいては主客が一体になっていますから、そこには「疑い」の起こる余地がないということです。何かを「見る」とき、本当にそれを見ているのかどうかについて、主客の隙間に「疑い」が忍び込む可能性がいつもありますが、何かを「感じる」ときは、主客の間に隙間がありませんから、そのことはもはや天地がひっくり返っても確かです。

摂取の光明に戻りますと、これを「見る」ことはできず、ただ「感じる」だけであるということは、「光明に摂取されていると感じる自分」と「摂取している光明」は分離していないということです。そこでは自分と光明はひとつになっていますから、もう摂取されていることに対して「疑い」の起こる余地がありません、誰が何を言おうが、確かなことです。


タグ:親鸞を読む
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