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事実ということ [『ふりむけば他力』(その101)]

(10)事実ということ

 仏法を「事実」として語ろうとしますと、それはたとえば『般若心経』の「色即是空」というかたちになります。これは「存在するものはみな空であり実体はない」ということで、世界のありようを「事実」として語っています。しかし、このことばが実際に意味しているのは「われらが存在するものを常住不変の実体であるかのようにみなしているのは、言語ゲーム上の約束事(ルール)にすぎないのに、それをいつしか忘れてしまい、あたかも現実の存在を常住不変の実体であると思い込むようになり、そのことからあらゆる苦しみが生じてくる」ということに他なりません。
 さて、われらが言語ゲーム上の約束事にすぎないことに囚われてしまって、それを現実の世界のありようだと思い込んでしまうように(空であるものを実体とみなしてしまうように)、それが約束事にすぎないと気づいた時、今度はそれを表現している「色即是空」ということばに囚われ、「色即是空」自体がほんとうの世界のありようであると見てしまうことがあります。そうしますと、こちらに「実体に囚われている〈うその世界〉」があり、あちらに「一切は空である〈ほんとうの世界〉」があって、われらはすみやかにこちらの「うその世界」からあちらの「ほんとうの世界」に移らなければならないように思念されます。それが解脱であり、悟りをひらくことであると信じて疑わなくなるのです。
 さてしかし、何度も言いますように、ここが「囚われの世界」であると気づいたからといって、「空の世界」に移ることはできません。われらは言語ゲームをしているに過ぎないと自覚したからといって、言語ゲームから降りることはできないということです。言語ゲームから降りることは生きることそのものから降りることですから。われらは実体に囚われて生活していると気づきながら、依然として実体に囚われた生活を続けるしかありません。ところが、どこかに真実の世界があると考え、この囚われの世界から解脱しようとする、ここに仏法を「事実」として語る聖道門の難点があると言えます。
 聖道門の「空の思想」とは、われらは「わたし」という常住不変の実体があるかの如くに仮構して生きているのであり、それは言語ゲーム上の約束事にすぎないということに尽くされていると言っていいでしょう。「すべては約束事である」ということを「一切は空である」と表現しているわけです。それをわれらの日々の生活そのものがひとつの物語の上に成り立っていると言うこともできます。

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