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至心のひと回向したまへり [『教行信証』「信巻」を読む(その40)]

(9)至心のひと回向したまへり


 『論註』のあと、今度は曇鸞の『讃阿弥陀仏偈』から引かれます。


 『讃阿弥陀仏偈』にいはく、曇鸞和尚の造なり 「あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念に曁(およ)ぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず」と。以上


 『讃阿弥陀仏偈』は『大経』にもとづいて阿弥陀仏とその国土および聖衆を讃嘆する偈頌ですが(親鸞はこれをもとに「讃阿弥陀仏偈和讃」を四十八首つくっています)、ここではそこから第十八願の成就文にもとづく偈文が引かれています。


親鸞は成就文の「至心回向」を、われらが「至心に回向して」ではなく、如来が「至心に回向したまへり」と読み替えていましたが(第3回、8)、ここでも同じことが起っています。「いまし一念に曁ぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずれば」のもとは「乃曁一念至心者回向願生」で、これは「すなはち一念に曁ぶまで心を至すもの、回向して生ぜんと願ずれば」と読むのが順当でしょう。しかし親鸞はこれを上のように「至心のひと回向したまへり」と読むのです。「至心のひと」とはもちろん弥陀のことです。


至心に回向するのは「われら」ではなく「如来」であるということ、この点において親鸞にブレはまったくありません。「至心」と「回向」ということばが出てくれば、例外なく「如来が至心に回向したまふ」と読みます。ここに潜んでいるものをまたもや曽我量深氏の「如来我となりて我を救い給ふ」ということばを手がかりに考えてみたいと思います。この量深氏のことばは「如来」と「我」とはひとつになっていることを語っています。「如来」と「我」、あるいは「本願」と「信心」はひとつであるということ、ここに本願他力の教えのすべてがあるということです。



タグ:親鸞を読む
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