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私は貝になりたい [『ふりむけば他力』(その10)]

(5)私は貝になりたい

 「能動か中動か」を分けるのが、「そと」か「なか」であるということに戻りますと、能動の本質は「わたし」が行為の「そと」にあり、それを主宰しているということでした(それに対して中動の本質は「わたし」はある事態の「なか」にすでに巻き込まれているということです)。「わたし」がある行為を選択し、それを「わたし」のコントロール下でなすということ、これが能動ということです。確かに何かを意識的に行う場合(無意識の行為はその限りではありません)、強弱の差はあっても「わたし」がそれをなそうと決意してはじまります。喜んでするか、いやいやかはさまざまでも、とにかく自分がそうしようと思わなければはじまりません。その意味ではみな能動ということになります。「わたし」が行為の起点であるということです。
 さてしかし、「わたし」がそうしようと思ってはじめて行為がなされるという意味では行為の起点は「わたし」ですが、「わたし」がそうしようと思ったのにはさまざまな因縁がありますから、「わたし」が行為の第一起点ではありません。「わたし」が無から行為を創始するのではないからです。その意味では「わたし」が行為をはじめるより前からすでにその前奏曲がはじまっていたということができます。このように考えてきますと先の自己責任ということについても再考しなければならないのではないでしょうか。具体的に考えてみましょう。ぼくの頭に浮ぶのは、もうずっと昔に放映された「私は貝になりたい」というテレビドラマです。
 ある陸軍二等兵が、杭に縛り付けられた捕虜のアメリカ兵を銃剣で突き刺すことを上官から命じられます。新兵の肝試しです。哀れな二等兵は心を鬼にして命じられた通りアメリカ兵に突進し銃剣で突き刺します。さて舞台は急転して敗戦後の国際法廷に移り、その二等兵は捕虜虐殺の罪で告発されます。その裁判で議論の焦点となるのは、捕虜を刺突するという行為が被告の意志に基づいてなされたかということです。被告は「あれは上官の命令であり、それを拒否することは天皇の命令に背くことですから、従わざるをえませんでした」と弁明しますが、検察官は「どんな命令であれ、それに従うという決断をしたのはあなたですね」と「意志の自由」を根拠に有罪を主張します。結局、絞首刑の判決が出され、元二等兵は「私は貝になりたい」と呟いてドラマが閉じられます。そのずっしり重い結末に、ぼくはその場から立ち上がることができませんでした。

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