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『歎異抄』を聞く(その83) ブログトップ

第8章本文 [『歎異抄』を聞く(その83)]

(9)第8章本文

 念仏は行者のために非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには非行・非善なりと、云々。

 (現代語訳) 念仏は行者にとって行でもなく善でもありません。自分のはからいで行うのではないのですから行ではないと言うのです。自分のはからいですることではありませんから善ではないと言うのです。もっぱら他力で、自力を離れていますから、行でも善でもありません、とおっしゃったことでした。

 念仏は無碍の一道、につづいて、念仏は行でもなく善でもない、と言われます。このように言われますと、そもそも念仏とは何だろう、と浄土の教えの基本中の基本に対する疑問が胸の奥からふつふつと湧き上がってきます。
 ここで念仏と言われているのはもちろん称名念仏で、南無阿弥陀仏と口に称えることを指します。そして南無阿弥陀仏のことを名号と言いますから、念仏とは名号を称えることです。ことばを厳格につかい分けると、このようになりますが、しかし実際のところでは、名号と念仏は互いに浸透しあい、名号のことを念仏と言い、念仏のことを名号と言っても、さほど違和感はありません。
 この融通無碍のところに「非行、非善」ということばの謎を解く鍵がありそうです。

タグ:親鸞を読む
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