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わたしのはからいがない [「『証巻』を読む」その31]

(11)わたしのはからいがない

仏教は無我の教えであると言いますが、無我とは「わたしのはからいがない」ということであり、「わたしがない」ことではありません。これを混同することから、「すべて如来のはからいである」と言われますと、「わたし」が蔑ろにされたと感じるのです。「すべて如来のはからいである」とは「わたしのはからいはない」ということで、「わたしはない」ということではありません。何かを思うとき、それは他でもないこの「わたし」に起っています。その意味では紛れもなく「わたし」はあります。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」ということばは、何かを思うとき、「思う」ことはこの「わたし」に起っているという意味では、もう否定しようもありません。

では「わたしのはからい」がないとはどういうことでしょう。

何かを思うとき、それは間違いなく「わたし」〈に〉起っていますが、それを「わたし」〈が〉起こしているわけではありません。何かを思うことが「わたし」(に)起っているという意味では、そのような「わたし」は紛れもなくありますが、何かを思うことを「わたし」〈が〉起こしているのではありませんから、そのような意味での「わたし」はありません。それを「わたしのはからい」はないと言っているのです。ところがわれらは何かを思うとき、それを「わたし」〈が〉起こしているように思っています。「わたし」が何かを思うことの第一起点であるかのように思い込んでいるのです。

何かを「思う」ことが「わたし」〈に〉起こるとき、「わたし」と「思う」ことは「わたし」のなかでひとつになっています。しかし「わたし」〈が〉「思う」ことを起こすとき(正確には、起こしているかのように思い込んでいるときは)は、「わたし」が「思う」を支配しています(支配しているように思い込んでいます)。デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」が、何かを「思う」ことが「わたし」〈に〉起っているという意味でしたら、「わたし」は「思う」こととひとつにとなって間違いなく存在します。しかしデカルトは「わたし」〈が〉何かを「思う」ことの第一起点と捉えましたから、そのような「わたし」が存在するとは言えません。

すべては「如来のはからい」であり「わたしのはからい」ではないということは、決して「わたし」を蔑ろにすることではありません。むしろ「わたしのはからい」ではないと気づくことにより「わたし」がより輝くことになりますが、それはこの後に明らかになります。

(第3回 完)


タグ:親鸞を読む
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