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第一義諦 [「信巻を読む(2)」その121]

(12)第一義諦

この阿闍世のことばを聞きますと、つい先ほどまで阿鼻地獄に堕ちるのではないかと怖れ、「耆婆、われなんぢと同じく一象に載らんと欲ふ」と言っていた人と同じ人かと思うほどの変わりようです。「無根の信」を得ることにより「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念に即生す)」(善導『往生礼讃』)して、これまでの古い阿闍世は死に、まったく新しい阿闍世が生まれたと言うべきです。「われいま仏を見たてまつることを得たり」という喜びは、「また願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること」ができますようにという願いになっています。阿闍世はすでに個人の位相から衆生の位相へと移っているのです。

衆生とはこの場合、単に個人の集まりではありません。個人をどれだけ集めても、それはあくまでも個人の集合にすぎず、衆生ではありません。衆生の位相に移ったということは「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」と思えるようになったということです。「いま仏を見たてまつることを得た」阿闍世が「願はくはもろもろの衆生、永くもろもろの煩悩を破し、了々に仏性を見ること」ができますようにと願うということは、彼が「ほとけの願い」に救われたのであるとともに、「一切の有情は、みなもて世々生々の父母兄弟なり」という位相に立つことで、彼自身が「ほとけの願い」を「わたしの願い」とするようになったということです。

さてここで「如来の語は一味なること、なほ大海の水のごとし。これを第一諦と名づく」とありますが、親鸞はこの「第一(義)諦」を弥陀の本願と読んでいるのは間違いありません。『涅槃経』においては釈迦如来が久遠の仏であり、釈迦如来の説かれることが第一義諦ですが、親鸞は『大経』の立場で『涅槃経』を読んでいますから、弥陀如来の本願が第一義諦であり、釈迦は「ただ弥陀の本願海を説かんとなり」(正信偈)ということになります。弥陀と釈迦は同じ位相に並んで存在するのではありません、弥陀は永遠の相にいて、釈迦は時間の相にいます。そしてわれらは時間の相にいる釈迦のことばを通して、そのなかから永遠の弥陀のことばを聞くことができるのです。


タグ:親鸞を読む
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