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真の知識にあふことは [親鸞の和讃に親しむ(その79)]

(9)真の知識にあふことは

真の知識にあふことは かたきがなかになほかたし 流転輪廻のきはなきは 疑情のさはりにしくぞなき(第109首)

真の知識にあうことは、むずかしいことかぎりない、流転輪廻のはてなきは、疑情にまさるとがはなし。

真の知識に遇うことは、本願名号に遇うことに他なりませんが、そのことが「かたきがなかになほかたし」と詠われます。昨日も引きましたが、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし」というのは親鸞の一貫した思いでした。本願名号の教えは易行にして難信であるということです。行としては、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけですから、これ以上に易しいことはありませんが、その本願名号を信じることが「かたきがなかになほかたし」であるということ。この思いは本願名号に遇うことができたとき、それまでの来し方を振り返ったときに起ります。ああ、これまで生死の迷いの中でどうすればこの暗闇から抜け出ることができるだろうと模索しつづけ、それでも明かりを見いだすことができずに来たが、いまようやく本願名号に遇うことができた、何とまあ長い年月であったことよ、という思い、これが「多生にも値ひがたく」、「億劫にも獲がたし」という詠嘆となっているのです。

ではどうして「弘誓の強縁、多生にも値ひがた」いのでしょう。それをここでは「疑情のさはりにしくぞなき」と言われ、正信偈では「邪見・驕慢の悪衆生」と言われています。「疑情」と言われ、「邪見・驕慢」と言われるのは、要するに「自力のこころ」(『歎異抄』3章)です。そして「自力のこころ」とは、詰まるところ、「わたし」がすべてをはからっているという思い(すなわち我執)に他なりません。あらゆることの第一起点が「わたし」ですから、救いも例外ではなく、「わたし」がそれをはからわずしてどうするかと思う、これが「疑情」、「邪見・驕慢」の正体です。しかし、救いをみずからの力で手に入れようとして「たとひ身心を苦励(くれい)して日夜十二時に急に走(もと)め急になして頭燃(ずねん)をはらふがごとく」(善導『観経疏』)しても「これかならず不可」です。なぜかと言えば、救いはこちらから手に入れることはできず、むこうから思いがけず与えられるしかないからです。救いの門はこちらから「さあ、入ろう」と思って入るものではなく、気がついたら「もうすでに入っている」のです。


タグ:親鸞を読む
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