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即得往生 [「親鸞とともに」その81]

(5)即得往生

浄土教では伝統的に浄土に往生するのは臨終のときとされてきました。善導はその前提で「前念命終 後念即生」と言っているのですが、親鸞は第十八願成就文を梃子として、本願の信がえられたそのときに「すなわち往生する」と考えます。

これから少し込み入った話になってきますが、親鸞にとって本願を信じるとはどういうことかを言うためには避けるわけにはいきません。まず第十八願です、「十方の衆生、心を至して信楽し、わが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生まれずは正覚を取らじ」(世界中の衆生が、心からわたしの本願を信じ、わが浄土に生まれたいと思って、十回でもわたしの名を称えようと思うならば、みな往生させよう、そうでなければ仏になるまい)」。これが四十八願の中心であることについては、衆目の一致するところで、親鸞もまたそう考えます。

しかし親鸞が第十八願そのものもよりさらに重んじるのがその成就文です。四十八願は法蔵菩薩が建てたものですが、それが成就したことを釈迦が述べるものが成就文とよばれ、第十八願成就文はこうです、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」(あらゆる衆生が、諸仏が称える名号を聞いて、本願を信じ喜ぶであろう。これは如来の回向であるから、かの浄土に往生したいと願えば、そのとき直ちに往生することができ、仏と成る身から退転することはない)」。

ただこの読み方は親鸞独自のもので、「(如来が)至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば」のところは、普通に読みますと、「(あらゆる衆生が)至心に回向して、かの国に生ぜんと願ずれば」となります。親鸞の読みでは「至心回向」のところだけ、その主語が如来となり、前後の文は「あらゆる衆生」を主語としていますから、如何にも不自然と言わなければなりません。しかし親鸞としては「至心に回向する」主体が如来でなければ、この文全体の趣旨が一貫しないのです。


タグ:親鸞を読む
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