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わがこころのよくてころさぬにはあらず [「『正信偈』ふたたび」その29]

(9)わがこころのよくてころさぬにはあらず

こんなふうに「われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり」(『歎異抄』後序)というありさまですが、さてしかし本当に何が「よし」で、何が「あし」なのか。後序はそのあと「聖人の仰せには、『善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり』」とつづきますが、結局のところ、われらはそのときどきに「わたしのいのち」にとって利益になることを「よし」とし、不利益になることを「あし」としているだけではないでしょうか。スピノザという哲学者はこんなふうに言っています、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものを…欲望するのではなくて、反対に、あるものを…欲望するがゆえにそのものを善と判断する」(『エチカ』第三部)と。

「われもひとも」みなそのときどきに「わたしのいのち」にとって利益になることを善として欲望し、不利益になることを悪として嫌悪しているのであり、その点では何も変わらないと言わなければなりません。もちろん、だからと言って誰でも人妻とその娘をなぶり殺しにするわけではありません。そんなことをするのはごくごく一部の人でしょうが、しかしそんなことをしなくて済んでいるのもその縁がないからだけのことで、「わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」(『歎異抄』第13章)と言わなければなりません。

「善因善果・悪因悪果」であって、とんでもない悪人が善人と同じように救われてたまるかと思っている人は、自分を善人の仲間に入れています。だからこそ「あんなヤツが」となるのですが、見てきましたように「よきこころのおこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはららふゆゑなり」(同)であり、善も悪もみな縁のなせるわざであると言わなければなりません。そんな「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで、みなすでに「ほとけのいのち」です。ですから「わたしのいのち」としてはそれぞれに異なりますが、「ほとけのいのち」としては「衆水、海にいりて一味なるがごとし」です。


タグ:親鸞を読む
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