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「生きる」とは [「親鸞とともに」その2]

(2)「生きる」とは

さて、趣旨文のなかで「生まれた意味」と「生きる意味」がひとつのものとして並べられますが、この二つは異なるのではないかという疑問が出るかもしれません。「生まれる」のは、もう否も応もなく、気がついたらこの世に生まれていたのに対して、「生きる」のは、自分で生きようとして生きるのであり、場合によっては生きるのを拒否することもあるのですから、「生まれた意味」と「生きる意味」ではおのずから違ってくるのではないかということです。もっともな疑問と言えますが、しかしこの趣旨文は両者を一体のものとして捉えなければならないという立場で書かれているように思われます。「生まれる」ことにも「生きる」ことにも、「仏さまから願いがかけられている」のだということで、ここにこの文のもっとも大切なメッセージがあります。

それを明らかにするために、まず、われらが「生きる」とはどういうことかを考えたいと思います。

われらが「生きる」のは、われらが生きようとしているからであることはもう疑いようもなく正しいと思えます。「生きんかな」と思うから生きているのであり、そう思うことがなくなったら遅かれ早かれこの世から姿を消してしまいますから。そのことを哲学的に表明したのが、デカルトの有名な「われ思う、ゆえにわれあり」です。これはデカルトが絶対に確かであると言えることをひとつでも見いだすために、もう考えられるあらゆることを疑い尽し、最後に残ったと思われたことです。

目の前に見えているものが確かに存在するかと問い、それは幻覚であるかもしれないと疑います。次に数学の真理たとえば2+3=5は確かかと問い、悪魔か神がわれらの頭を狂わせてそのように思わせているだけかもしれないと疑い、挙句にわれらが意識していることすべてが壮大な夢の中のことかもしれないと疑います。かくてもう確かなことは何ひとつ残らないように思えたそのとき、そう思っている「われ」がいることはもうどんな法外な疑いも入る余地がないほど確かであると気づきます。「われ」がいることを疑っても、そのように疑っている「われ」がそこにいるのですから。


タグ:親鸞を読む
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