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往相と還相 [『教行信証』「信巻」を読む(その136)]

(7)往相と還相

天親としては(そして注釈者としての曇鸞にとっても)、回向とは「われら」が往生するために己の善根を一切苦悩の衆生に「回らし向ける」ことですが、親鸞は回向を「法蔵菩薩」がわれら一切苦悩の衆生に功徳を回施してくださることと理解するのです。この転回は先の「至心に回向したまへり」と同じ親鸞のコペルニクス的転回です。第十八願成就文につづいてこの文が引かれたのは、このつながりからに違いありません。成就文に如来が「至心に回向したまへり」とあったことを受けて、この文で「いかんが回向したまへる」というようにつなげているのです。

さて曇鸞の注釈に入りますと、まず回向に往相と還相があることが述べられます。浄土へ「往く相」と、浄土から「還る相」ということで、親鸞が「教巻」の冒頭に「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり」と述べたその元がここにあるのですが、回向に往相・還相の二つがあるというのは『浄土論』の枠を超えた曇鸞独自の視点と言えます。といいますのは天親にとっては五念門のなかの前四つ、すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察が往相に当たり(天親は「入」という言い方をします、浄土に「入る」ということです)、最後の回向が還相に当たるからです(これを「出」と言います、浄土から「出る」ということです)。ところが曇鸞は回向のなかに往相と還相があるとするのです。

では曇鸞にとっての往相回向とは何か。親鸞が独自に読んだ文を元に戻しますと、こうなります、「往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀仏の安楽浄土に往生せんと作願するなり」と。すなわち「われら」が自分のもてる功徳を回向して、みなともに往生することを願うということです。次に還相はどうか。同じように普通の読みに戻しますと、「還相といふは、かの土に生じをはりて、…生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かふなり」となり、「われら」が功徳を回向して、浄土から娑婆に還り衆生を教化するということです。


タグ:親鸞を読む
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