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よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ [『教行信証』「信巻」を読む(その37)]

(6)よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ


 曇鸞は『浄土論』の一句一句について丁寧に注釈していきますが、注目すべきは第三句の「かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せん」の注釈です。まず「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と述べられます。この文は名号の不思議なはたらきを表すものとして、親鸞はすでに「行巻」の自釈の中で言及していました、「しかれば、名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と。また和讃にも「無礙光如来の名号と かの光明智相とは 無明長夜の闇を破し 衆生の志願をみてたまふ」と詠われています(『高僧和讃』曇鸞讃)。このように本願の名号には「破闇満願」のはたらきをするとされるのですが、曇鸞が問題とするのはそのあとです。


「しかるに」とつづけ、「称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざる」ことがあるが、それは一体なぜだろうと問います。そしてそれに答えて「実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり」と述べますが、ここまできまして、この文が「信巻」で引用される意味が浮び上がってきます。称名していても破闇満願のはたらきが現われないのは、その称名が「実のごとく修行せざる」ことと、「名義と相応せざる」ことによるというのですが、それはどうやら信心と関係しているようだからです。具体的なことはこれにつづく文の中に出てきますが、それに先立って名号(称名)と信心の関係についてあらためて確認しておきましょう。


本願(如来の願い)は名号(こえ)となってわれらのもとに届けられ、それをわれらが聞き受けることが信心です。そしてその慶びがわれらの口から「こえ」となって出るのが称名に他なりません。このように本願は名号という「こえ」の形をとることでわれらにはたらきかける力となり、「よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」のであり、そしてその慶びがわれらの称名となるということ、これこそ「かの名義のごとく、実のごとく修行し相応」すると言われていることです。



タグ:親鸞を読む
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