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「親鸞とともに」その15 ブログトップ

たまたま [「親鸞とともに」その15]

(15)たまたま

有限なる「わたしのいのち」が無尽につながりあっている、そのつながりの総体が無限なる「ほとけのいのち」であるということです。ここからさまざまなことが言えますが、第一に「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで「生かされている」ということ、すなわち「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」という無限のつながりから切り離された途端にその存立の基盤を失うということで、この点はこれまで何度も述べてきました。第二に「わたしのいのち」が「いまここ」で生きているのは「たまたま」のことであるという点で、少し前のところ(11)でふれたことですが、これが意味することにもう一歩踏み込みたいと思います。

「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」という無限のつながりのなかにあるということは、言い換えますと、すべての「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」のなかで同等であるということです。としますと、Aという「わたしのいのち」がAという「わたしのいのち」であるのは「たまたま」のことであり、Bという「わたしのいのち」であったとしても何の支障もないということです。つまりABがそっくり入れ替わっても何の問題もないということです。

もしそれぞれの「わたしのいのち」が、それ自体として自立しており、その存立の根拠がそれぞれの「わたしのいのち」自身にあるとしますと、Aという「わたしのいのち」とBという「わたしのいのち」が入れ替わることはできません。ABになることは決してできず、またBAになることも決してできません。AにはAの存立根拠があり、またBにはBの存立根拠があるのですから、それが入れ替わるということは、いずれも存立できなくなるということです。

しかしAという「わたしのいのち」も、Bという「わたしのいのち」も、その存立根拠は「ほとけのいのち」にあるのですから、ABがそっくり入れ替わっても、存立根拠としての「ほとけのいのち」のなかで位置が入れ替わるだけのことで、「ほとけのいのち」としては何の支障もありません。


タグ:親鸞を読む
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