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機の深信と法の深信 [『教行信証』「信巻」を読む(その103)]

(7)機の深信と法の深信

「われらの心は虚仮諂偽である」ということと、「法蔵菩薩(ひいては阿弥陀如来)の心は清浄で真実である」ということ。どちらを先に言ってもいいではないかと思われるかもしれません、何故そんなことが問題になるのか、と。そこで参照したいのが善導の二種深信です。善導は信心には二つの面があり、その一つは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と信ずること、もう一つは「かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信ずることであると言います。前者の「自身は罪悪生死の凡夫」と信ずることを「機の深信」、後者の「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信ずることを「法の深信」といいますが、真実の信心には必ずこの二つが伴っているということです。

この二つはコインの表と裏のような関係にありますから、どちらを先に言っても問題はないように思われます。しかし善導はまず「機の深信」を言い、次いで「法の深信」を言うのですが、これが偶然だとは思えません。ここには何か秘密が隠されているに違いないと感じます。それを探るに当たり、まず確認しておきたいのは、「機の深信」も「法の深信」も如来より賜りたる信心であるということです。機すなわちわれら衆生についての如来の智慧を賜るのが「機の深信」であり、法すなわち本願についての如来の智慧を賜るのが「法の深信」で、どちらも如来からやって来ます。としますと、どちらが先にきても問題なさそうに思われますが、それを賜るわれらの側としますと、「機の深信」が先でなければならない理由があるのです。

「機の深信」とは自力無功の気づきと見ることができます。「罪悪生死の凡夫がどうもがいても出離の縁はない」という気づきです。何度も言いますように、この気づきをわれらがみずから得ることはできません、それは如来からやってきます。「汝は罪悪生死の凡夫にして、出離の縁あることなし」という如来の「こえ」に打たれて、その前にうな垂れざるをえないのが「機の深信」です。そこに第二の「こえ」が聞こえてきます、「そんな汝をわが本願は必ず救う」と。この「こえ」が干天の慈雨のように身に染みるのが「法の深信」です。


タグ:親鸞を読む
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