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親鸞の手紙を読む(その6) ブログトップ

第2段 [親鸞の手紙を読む(その6)]

(6)第2段

 第2段に進みます。

 正念といふは、本弘誓願の信楽定まるをいふなり。この信心うるゆゑにかならず無上涅槃にいたるなり。この信心を一心といふ。この一心を金剛心といふ。この金剛心を大菩提心といふなり。これすなはち他力のなかの他力なり。又正念といふにつきて二つあり。一には定心(じょうしん、定善の心)の行人の正念、二には散心(さんしん、散善の心)の行人の正念あるべし。この二つの正念は、他力のなかの自力の正念なり。定散の善は、諸行往生のことばにをさまるなり。この善は、他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地(へんじ)・胎生(たいしょう)・懈慢界(けまんがい)までも生るべからず。このゆゑに第十九の誓願に、「もろもろの善をして浄土に回向して往生せんとねがふ人の臨終には、われ現じて迎へん」と誓ひたまへり。臨終まつことと来迎往生といふことは、この定心・散心の行者のいふことなり。

 (現代語訳)正念といいますのは本願の信心が定まることを言います。この信心が定まるから必ず無上の悟りに至ることができるのです。この信心を一心と言い、また金剛心とも言い、また大菩提心とも言います。これこそ他力の中の他力です。また正念にはそれとは別にさらに二つありまして、一つは定心の行者つまり心を集中して念仏する行者の正念で、もう一つは散心の行者つまり心を集中できずに念仏する行者の正念です。この二つの正念は他力の中の自力の正念です。定善・散善はともに諸行往生ということばに収まります。定善・散善は他力の中の自力の善です。こうした自力の行者は、臨終の来迎を待たなければ、辺地・胎生・懈慢とよばれる仮の浄土へも往生できません。こんな訳で、第十九願では「もろもろの善をなすことによって往生しようと願う人の臨終にわたしが現れて迎えとろう」と誓われているのです。臨終をまち、来迎をたのんで往生するということは、こうした定心・散心の自力の行者についていわれることです。

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